老子を誤解していたように感じたのは、
伊那谷に住む加島祥造さんの詩に出会ったからだ。
「求めない」という詩集から・・・・・・
求めないー
すると
簡素な暮らしになる
求めないー
すると
いまじゅうぶんに持っていると気づく
求めないー
すると
いま持ってるものがいきいきとしてくる
求めないー
すると
キョロキョロしていた自分がおかしくなる
求めないー
すると
心が静になる
求めないー
すると
心が広くなる
求めないー
すると
ひとに気がねしなくなる
求めないー
すると
恐怖感が消えてゆく
もう一つの詩集に「受けいれる」・・・・・・
受けいれるー
それは
柔らかな自分を
いたわることなんだ
そうしないと
固くこわばって
たたかい
たがいに傷つけるようになる
ともに生きる心は祈るー
競って生きる心は
求める
生きていくにはこの両方がいる必要だが
どちらかが過剰になると
危ないんだ
老子は言うー
人は陽を背負い
陰を胸に抱いて
和に向かって進む、と
自分の中の不和に
「気づく人」は、タオの道にいる
「無敵」とは味方を創ることでもなく、敵を倒すことでもない。
敵を創らないことだと田中角栄は語った。
他人に味方と敵を分別してるのは求めている自分があるからだ。
他人に何かを求める前に「受けいれる」そして自分の不和に気付くことだ。
老子は決して仙人思想でなく、現実を生き抜く智慧である。
皆さんはいかがおもいますか?