神・仏は自分の中にある

投稿日:2018年7月8日 更新日:

シンクロナイズドスイミング日本代表のヘッドコーチだった井村雅代さんがおっしゃるには、
三流の人は道を追う、
二流の人は道を選ぶ
一流の人は道を創る
そうなんですね。

親という道しるべを頼りに生きてきた私たちは
思春期には脱皮して、理想を持ったり、あこがれの人や師匠について学ぶ。
そして気付いたら、自分の道を自分で創ることを自覚していくのである。

神だとか仏という完全無欠の存在を描いて追っかけることから脱皮し、
善だ悪だと分別し、独善的になって他者を排除する自分と、
他者にすがるように善を装う偽善的な自分から、
自ら「無から有」を創りだす自分になる時が来る。

「無から有」を創るには、
自分の外に存在すると思っていた「神・仏」の力を自分に内在する力として、
主体的に引き出す事だと気付く。
決して自分が神・仏だと思いあがることや傲慢になることではない。

人間は自然の分身(自分)として、宇宙の意志が仕込まれてる自覚を言ってるのである。

仏教とは何かというと智慧と慈悲と答える。
しかし、生きていくには基本、自分の肉体を維持し、
種を保存する本能(利己心)が一番で行動することは間違いない。

必死に生きようとすれば「智慧」が湧き、種を保存しようと思えば他人を愛する利他心がいる。
性においても、社会的な分業においても他者の人格を認め受け入れる必然性が求められる。

これが、ただ肉体を維持するという次元から、
みんなで形成した共同体を維持し、発展させようとする利他行へと昇華される。
そのためには「生活、社交(人事)、技能、学問」といった現実の関係性をいったん止めることが大事。

「摩訶止観」という言葉がある。
摩訶=偉大な
止観=日常生活の自分を抜け出しいったん止める(道元流に言うと「身心脱落」)
何十年も青空を見たことない自分から脱落する。
自分も含め全宇宙を俯瞰する。

吉田兼好流に言えば無常観を体得する。
1.生活感情の詠嘆的無常観
2.実相的無常観(原理)
無常観に感情が入ると虚しい、切ないとなるが「常がない」(変化する)ということだ。

凡人の私たちは、ついつい一つの事に執着して変化を止めてしまっている。
一瞬の変化の中を自ら泳ぐことこそが自由で自在を得るにもかかわらず、
時間を止め感傷に耽るものだ。
これを執着というのである。

さて、この根本は仏教で言う「本来の面目」、無我なる主体を獲得すれば、
本来具わってる宇宙の力、相対的分別智を超えた絶対的智慧(叡智)を引き出し、
この世が相対的な地獄から絶対的な極楽の世界へ導く力を得るのである。

「奪い合えば地獄 分け合えば極楽」
分かち合う力を引き出す事こそ、神・仏の力である。
宇宙は与え合い、調和しあうようにできているからである。

皆さんは自分の中の神・仏に気付かれてますか?

-生き方
-