今朝新聞を読んでいたら「意識は害になる」という言葉が飛び込んできた。
養老猛司さんが書き下ろした「遺言」という本のポイントが書かれていた。
「意識」とは目や耳などを東して受ける感覚に対してそこに「同じもの」を見つけ、
意味に変換し、秩序を与える。
都市で暮らす人間は「感覚入力を一定に限ってしまい、意味しか扱わず、意識の世界に
住み着く」
人間の子供にとっては経済的でも効率的でも合理的でもないものだから意識が邪魔になる。
そのしっぺ返しで子供が減っているのであろうというのである。
動物は感覚をつかって生きる。リアルな存在だ。
団塊の世代ではしょっちゅう山登りする。
若者も森に行くためのSUV車に乗る。
本能的に「意識」に害されてるからのバランス行動であるに違いない。
この文章を読んでいて「老子」の言葉を思い出した。
「知足不辱 知止不殆」
意味=足るを知ると辱めを受けない、止ることを知っていれば危険を免れる。
(意識を自分で外しコントロールする事こそ静かさと平安を得れると諭す)
誰でも地位とお金と自分の身体のどちらが大事か?と問われたら、
必ず「身体」が大事だと答える。
次に身体の中で頭と腹どちらが大事かと問われたら、
都会に住んでいる人は一応に「頭」と答えるであろう。
養老先生によると「頭」は意識を作り、意味を問う交感神経が働くのである。
だから「考えすぎ」は不安を呼び込み恐怖心を産みストレスを作り出すことになるのである。
「腹」と答える人は全体の身体を整える副交感神経を使う事を知ってる。
感情を養うセンターでもあるからバランスが取れた身体になると同時に胆力もできる。
2500年前の老子の無為自然とは意識で身体を引っ張りすぎるなと警告する。
足るを知らなければもっとほしいもっとほしいと欲望が肥大し我利我利亡者となる。
意識で引っ張る欲望の列車のように、さらに早く走ろうとして、
自らの身体を壊し、意識が有益にならず害となるのである。
禅は「止ること」を教え、雑念に振り回されず自らの命が躍動する良い方法を教えてる。
竜安寺の庭のつくばいに「吾唯足知」とかかれている。