「成功」と「失敗」は一本の糸の、でこぼこな道に過ぎない。
そんなことを考えれるようになるには失敗の連続にもめげず、
理想を求め、志を高め、夢を膨くらませ、まだ見ぬ末来を作りたい。
そんな命のそこから湧き上がる生きようとする情熱に支えられた、
勇気と行動力が一歩づつ着実に未来を切り開く。
現実絶対肯定し、絶望を捨てきった希望のみを心に抱き、
絶対積極で挑戦していく以外に末来は実現しない。
「思い」を熱くし念願する。
ところが現実は善だ悪だに迷い、損だ得だに苦しみ、
正しいとか間違いにこだわって、思い通りに行かないと自分でストレスを作ってしまう。
愚かだとわかっているのにどこかで一本の糸の変化の過程と捕らえるのでなく、
〇✕を判断して考えようとする愚かを繰り返してるのが凡人の悲しさだ。
仏教では「分別智」と言って、相対的にモノを捕らえてはならないと教える。
言い換えると「と」の関係を分別するといい、「の」の関係を無分別と教える。
「私」と「あなた」でなく、「私」の「あなた」と捕らえる。
私の好きな「自他不二」という言葉がそのことを意味する。
人生を成功の連続とでありたいと考えた若いときは、
努力しても努力しても先が見えなく苦しいだけで、末来が見えなく不安や恐怖心がでてくる。
誰しも一度はこんな心境になるのが普通だ。
ある時、分別して「成功」を求めたから苦しかった事に気付く。
「成功」を求めるのは現実でなく、現実の中に末来があることに気づき、
現実の不完全さを情熱と勇気と行動力で末来を作る。
それこそが自分が主人公だ。
もし100%が未来としたら、現実の人生はある意味では「失敗」の連続だと考えたほうが苦しくない。
何故ならもともと人間も現実も不完全で未熟だからだ。
だから、努力すれば一歩でも前進し、昨日より進化し充実感と達成感を味わい自信もできる。
故に、御釈迦さんが「一切皆苦」と思えとおっしゃられたのもうなずける。
一歩づつ苦から開放するために行動し現実を開いていくことを諭されたのだ。
無意識に「成功」を求め、「楽」でなければならないと思い込んで、
自分にプレッシャーを与え「苦」を作っている愚かさに気付かされる。
未熟で不完全な人間が、現実をより良くすると、
意識的に「失敗」の連続で「苦」の連続という不完全な現実を受け入れ、
「失敗」、「苦」からの開放すべく智慧と行動を世のため人のためにすることで結果、
「成功」や「楽」に一歩づつ近づくことは間違いない。
これも分別智による表現だから理屈ぽい。
「成功」や「失敗」「苦」や「楽」と細かく切らないで、
山坂のようにつながる一本の糸(道)でありすべてがプロセスだ。
死を迎えたときに「成功」「失敗」が始めてわかるのが真実だ。
皆さんは人生は失敗の連続だと思えますか?