「生老病死」というのは御釈迦さんがある時カピラ城をでて、
人が生きるのに必死になっていたり、老いることに苦しみ、
病に苦しみ、死ぬのを恐れている現実を見られた。
29歳になり、城を出て出家し如何に生老病死から解放されるかを探すたびに出たのである。
必死に仙人を訪ね考え方を学んだが答えはない、
次にとことん肉体をいじめたがそれにも答えはない。
大変な断食行をして死の一歩手前になって、
山から出てきてスジャータからヤギの乳粥を貰って生き吹き返すのである。
御釈迦さんは「覚者」となる。目覚めた人だ。
「苦からの開放」を遂げたということだ。
人間の苦は肉体的苦と精神的な苦の二つがある。
私たちの身心は「生老病死」生きることに苦しみ、老いに悩み、
病気にわずらい苦しみ、死を恐れるのが普通の事だ。
生きることに努力し、老いることを防ぐ努力し、病を治す努力をする。
ところが死ぬことにどう努力するかといえば、死なない人になることだとおもい当たる。
死なない人になるには怠らないこと(不放逸)。
ただ、吸って吐く、次吸えなかったら死である。
肉体的には死ぬ、精神的にも死ぬ事が死なない事であり、現実に生きることだ。
生かされてることである。
「苦からの開放」は楽する事でなく、呼吸の間に苦を寄せ付けない努力をすることで、
生きることに怠らないことである。
御釈迦さんは「苦行無益」とも言っておられ、
厳しい修行がよいことでなく、呼吸の間に隙を作らないで不死の境地を体得すると諭される。
葉隠れに「武士道とは死ぬことと見つけたり」という名言がある。
実は死を受け入れ生きることができたら、死の恐怖はなくなり「苦から開放」される。
御釈迦さんは不死の境地を得るために私心を超え恐怖心を克服し目覚めた覚者となった。
仏教ではそれを保つための生き方として「上求菩提 下化衆生」を実践する事だと諭す。
僧侶は仏法を伝えるのが使命で努力を怠らないことだが、
私たち生活者の努力する意味は仕事を通じて、
物心両面の幸福を味わい実現してもらうお手伝いして社会に貢献する事だ。
皆さんは努力の意味についてどうおもいますか?