「苦しいときの神頼み」という言葉があるように、
凡人の私たちは外の神・仏を求めるのが当たり前と考えているのが普通だ。
だから正月には神社に参り,盆にはご先祖供養し思いが叶うように祈るのである。
ところが安岡正篤先生は「心中常に喜神を持つこと」とおっしゃられる。
神・仏自分の心の内にあると言うのである。
しかし、自分の心の奥の奥にある喜神をどうすれば引き出せるのかという方法を知りたいのが人情だ。
その方法は現実絶対肯定する。
100%事実を受け入れる事だというのである。
理屈はわかるが、具体的に行動できるかが課題だ。
さらに、それを実行するには二つの心構えがいるというのである。
1.自分にとって都合のいいことも悪いことも感謝の心と素直な心で受け止める。
安岡先生は喜神についてかたられてるのは、
「人から謗られる、侮られる事を言われると憤慨するのが人情であるが、
たとえ憤しても心のどこかで、こういうことも自分を反省し練磨する所縁になる。
人の毀誉褒貶などに虚心坦懐に接すれば面白いと心を180度切り換える事が喜神だと書かれている。」
2.感謝と素直を受け入れるのは消極的だが、積極的には善を為すことだ。
言い換えると利他行をする志を持つことを意味する。
自分の心の中には鬼神もいるのである。
これは自分の思いを通そうとして、自分の愛欲に執着し自暴自棄になって行動する事だ。
(最近マスコミでにぎわってる俳優の船越さんの奥方の恨み節のような動画を使った配信だ)
道元は「善悪は時なり」と言ってるように、100%善人もいないし、100%悪人もいない。
縁(人や周りの環境)によっては善人にも悪人にもなれる存在が人間だというのである。
鬼神は人間の欲望が主人になった姿(自己中心的な利己行)で、
喜神は他人を思いやり、天から授かった自分の肉体や心を鍛錬して高める姿(他を利する利他行)の事である。
この自分のうちにある神・仏をを引き出すには肉体的感覚、
精神的好き嫌いを取り除く努力がいるのである。
道元も「衆生本来仏なら、なぜ修行がいる」、
という大疑問を抱いて宗(中国)に渡って如浄禅師にあって目覚めたのである。
その言葉が「身心脱落」だ。
本能を解脱しないと私心が取れ無心になれない。
論語(衛霊公第十五)に、
「君子は諸(これ)を己に求め、小人は諸(これ)を人に求む」
何が起こって君子(リーダー)他人のせいにして愚痴を言わないで自己責任だ。
小人(我々凡人)は必ず愚痴をこぼして他人のせいにする。
もし、志もなく感謝の気持ちもないときは自己責任にしたら、うつ病になるかノイローゼになる。
現代の若者の自閉症やうつ病は、自分の命を燃やし役にたってる実感が得れなく苦しんでいるのであろう。
仕事も遊びも夢(志)を持って楽しむ事だ。
皆さんは内なる神・仏引き出してますか?