判断の基準と決断の基準

投稿日:2017年5月4日 更新日:

私たちは「何が正しいか」判断しなければならない事や人に出会う。
判断とは答えがあることを決めるのである。
事業のようにお金に関わる仕事で判断するときは、三つの段階に判断するのが一般的だ。
一段階は本能的に「儲かるか儲からないか?」損か得かと判断するのが常識だ。
二段階は感情的に「好きか嫌いか?」という感情的な判断をするのが常識だ。
三段階は理性的に「論理のつじつまが合うかどうか?」という合理性の判断するのが常識だ。

この判断基準はすべて自分の側から見た利己的な判断だ。
だからたぶん上手く行かない。
この判断とは全く違う判断、それを決断という。
決断とは答えがないことに「エイヤーと飛び込むこと」である。
ただ、やるかやらないかを決める事だが基準はある。
この基準は「宇宙の法則」=愛と誠と調和であり、
言い換えると公平で勇気と優しさがで「人も社会も幸せにしたい」という利他的判断基準だ。

人間の本能とは対極にある判断基準だ。
聖人君主か宗教家でない限りできないと思いがちだが、
実がわれわれは無意識にこの判断と決断をおこなっている。

どんな時かというと、
1.病気になって生きるか死ぬかという場面に急に両親に感謝したりする。
2.極貧になり食うや食わずの状況で人の情けに助けられ、
当たり前に感謝するようになる。(息する事、指が動く事、よく眠れること)
3.戦争に行って生死の境を生きぬいたときに感じる命の尊厳に感謝する。

上記三つの状況は感覚的には居心地が悪い嫌な状況、
精神的感情は追い詰められ逃げ場がなく苦しい状況である。
この状況で末来に希望を見出せるか、
諦めて絶望を心に描くか迷うが、
吹っ切れば三段階目の理性的判断を超えれるのである。

理屈はわかるが、体験しないと信じられないのが普通だが、
実際私は何度も理屈を超えた判断をしたというより、
一生懸命に行動していたら自然とそういう決断に導かれたという方が確かだ。

行動はしたが答えが合ったわけではない。
論理的なつじつまの合わないことを言ってるのは承知してるが現実だ。
具体的な体験話はあるが後日書く事にする。

人間を作ったのは誰か知らないが、
人間には真善美を追っかける潜在的な価値が仕組まれているとしか思えない。
また、「何が正しいか」と考えた時、
必ず上手く行くのは「世の中のため、人のために」行動するときだ。
利己的判断は一時的には上手く行っても継続しないのも事実だ。

皆さんは「判断、決断」どう思って何時もなさってますか?

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