答えは「ひとつ」か「人の数だけある」
社会で生きて行くにはたくさんの人と関わって生きなければならない。
これが実に厄介であることは間違いない。
現代のように発展した社会では分業によって効率よく衣食住の材料を安く良い物を作ることはいいことだ。
ところが、一方では間接、直接に関わらず多くの人と関わって仕事をし生活しなければならないのも事実だ。
臨済禅師の四料簡を思い出す。
鐘と撞木で人間のパターンを四つで表現する。
1.鐘がなるか撞木が鳴るか
鐘はならない撞木がなる。(これは主観的で自己中心的な考えで、俺が俺がと言うタイプ対立型)
2.鐘がなるか撞木が鳴るか
撞木ならない鐘がなる。(これは闘いを避け、下出に出て依存するタイプで迎合型)
3.鐘がなるか撞木が鳴るか
鐘と撞木の間でなる。(これは現実の事実の中に入らないで傍観してる無責任なタイプで他人事型)
4.鐘が鳴るか撞木が鳴るか
鐘と撞木で音がする。(これが現実の中で具体的に解決し算法良しを実現するタイプで主体的創造型)
考え方は4番の主体的創造型であるが、大事なのは正しい目標に向かっていて努力することだ。
皆さんも知ってる「ウサギと亀」の話の本当の意味は、
ウサギが手を抜いて楽したから負けたと考えられていませんか?
実はウサギと亀の着眼点が違っていたのですね。
ウサギはのろのろした亀を見て走ったから負けたんですね。
では亀はどこを見ていたかである。
仕事や人生には山、坂があり、まさかと言う坂もある。
私達はどんなに苦しくても死ぬまで生きぬかなければならない。
仕事を変わることもできる。苦しい悲しいから自分で自殺することもできる。
こんなとき亀さんのように自分の仕事や人生の「ゴール」を見てあるく事だ。
他人と比較しうらやんで行動するのでなく、
他人がやるから自分も行動するという依存的な生き方でもない。
自分の命を大切に使う使命を持って、
正しい目的に向かってのろのろ(精進)歩く休むことなく。
社会人として正しい目的は「自分以外の人や社会、自然」に役に立つことだ。
言い返ると善思善行の実行(利他行一番)、善の善に徹することだ。
亀さんのようにこつこつゴールを見つめて、
利己的な楽したい怠惰な誘惑や自分さえ良ければいいという自分勝手な本能的誘惑にも負けず、
自分の仕事や人生を放り出さないで命の限り下向きに歩み続けることだ。
若いときはウサギのように早く成果がほしく一生懸命走ったり、途中下車して違う方向に行ったりした。
私の寿命も少なくなってきた。
学んだことを未来を開く若者へつないで行きたい。
ゴールを見つめさらに学び続け、謙虚でありたい。
皆さんはウサギと亀の本当の意味ご存知でしたか?
皆さんは
この人、社会、自然の三方良しを実現する目的を持つことだ。