欧米からは日本人は宗教心がないと揶揄されたり、
曖昧で主体性がなく掴みどころがなく精神的には子供のような大人と評される。
一神教の世界観から見ればそうかもしれない。
日本人は山には山神、海には海神、石にも石の神がいる。
あらゆるものを受け入れ敬い「祀る」そして「祭り」を行うのである。
農耕民として共同体で生きていかなければならなかったから、
何よりも自然の恵みに感謝し、災いが起こらないように鎮魂の儀式もした。
言い換えると「あるがまま」を受け入れる習慣がついていた。
共同体での掟を規律を破ったら制裁として共同絶好を課せられる。
「村八分」と言って罰則も100%でなく、二分の葬式の手伝いと火事の消火活動は除かれた。
人間関係遮断されるのだ。
言い換えると欧米が怖がる一致団結する集団主義を生み出したのであるともいえる。
でも共同体の掟さえ破らなかったら、助け合い支えあって生きていけるのである。
このメンバーには義務と責任が重要である。
共同体の中では家族が互いに保証をしあう関係が生まれ責任を取る義務が課されていた。
歴史的には為政者に監視され窮屈な一面もあったかもしれない。
一方、八百万の神は人間に於いても同じで、
落語にでてくる「熊さん、八さん」といった人柄は、
少し早合点するタイプや間の抜けた人もそのまま受け入れられる風土だった。
欧米で言う無機質な「個人」(インディビデュアル)でなく、
社会的関係を持った人(パーソン)として人物を受け入れていたのだ。
実に人柄丸ごと認め合うのは現代で言う人物本位の民主主義であると考えられる。
欧米は制度によるルールで選挙という形の民主主義だ。
中味の人物は問わない投票の数の論理だ。
知名度さえあれば政治的能力は関係のない機械的な方法だと感じるのは私だけだろうか?
今月末の都知事選の基本はテレビで有名か有名でないかの選挙だ。(これほんとの民意かな)
チャーチルは「選挙による民主主義」は、
今のところ、これ以外に方法がないから採用してるに過ぎないと言ってる。
ギリシャの哲学者アリストテレス(BC384~322)は、「仕事などを通じて「他と交わる市民」(関係の中にある人)を念頭に置いて「正しいこと」(よき考え)を行う必要を説いたのである。
正しい考えと行為はその人を育て、卓越した人格を涵養するといっている。
1929年ニューヨークの株が暴落し。世界は恐慌に見舞われた時あらわれたのは、
社会自由主義的政策を提唱したケインズ(イギリスの経済学者)で、
国家が有効需要を作り出す方法だ。
戦後の日本の基本政策はケインズ理論であった。
しかし、1971年のニクソンショック以降はどんどん経済が金融優先の方向へ行く。
今こそ、「何が正しいか」ということが問われてる。
自由至上主義から社会自由主義を体験し人間の権利ばかり拡大してきたのが現代だ。
今こそ良心に従い権利と義務のバランスを自覚したハイブリッドな良識のある人材が望まれる。
中国の古典には「利は義の和なり」「利の元は義なり」と、
権利の利が先でなく、義務の義が先と教えてる。
それは自分の利己心と戦い「利他行」を一番で行動する人に違いない。
キリスト社会ではエゴと戦い「愛」を一番に行動する人と確信する。
皆さんは権利と義務のバランスどうして取られているんですか?