摩訶般若とは

投稿日:2017年3月8日 更新日:

一休禅師は「摩訶とは、大という心なり。大という心を知らんとならば、
まずわが小さき心を尽くすべし。小心とは、妄想分別なり。」

意味=大きい心を知りたければ、とにかく自分の小さい心を捨ててしまわなければ
なりません。
小さな心とはつまらないことを考えたり、あれこれと思案する事です。

キリスト教の場合はアダムとイブが原罪と言って罪人ですから、
人間の中には自らを救う可能性がないのです。
この罪なる人間を救うのは神だけですから、人間は自分を放棄して神に向かわねば
なりません。

一方、仏教では人間は誰でも「仏性」という素晴らしいものを心のうちにあるという教えです。
それを自らが引き出せばいいということになっているのである。

若き道元(26歳のころ)は「仏性」があるなら、なぜ修行して努力するのかという疑問を抱いて、宗の国(今の中国)の如浄禅師にまみえて開眼するのである。

さて、一休の言う小心とはどんな心なのか解き明かすと、
無心で無邪気だった赤子が両親や友人、社会で体験し、自分を守るために学んだ、
自己中心的な物事についての是非、大小、善悪、美醜という個人の勝手な価値判断の事
である。

こんな歌がある。
「みどりごの次第次第に智慧づきて 仏に遠くなるぞ悲しき」

一言で言うなら、自分を守るために学んだ、損得、好き嫌い、善悪といった分別智を捨てたら、
もともとある大きな心が出てくるというわけである。
この大きな心のことを「無我」と言うのである。

道元は無意識に自分を守るために創った価値観を捨てるのは大変苦痛なことだと理解したのである。
その言葉が「身心脱落」という言葉に代表される。

現代は個人主義を標榜し三利主義となっているとおっしゃるのは西村恵信先生だ。
「営利」「便利」(合理主義)「権利」である。
この自己中心的な自我を180度ひっくり返したら出てくるのが「大きな心」である。
「利他行」に心の舵を切り換える事だ。
これは般若の智慧であり、損得、好き嫌いから開放され自由で自在な大きな心になるの
である。

小さな心の自我を捨てるだけだが、よほど自分を鍛錬しないと捨てれないのも事実だ。
一生修行だ。

皆さんは般若の智慧ある大きな心にいつでも自由自在になれてますか?

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