「不立文字 経外別伝」は禅語だ。
恩師小田切がよく言った言葉を最近つくづく考えるようになった。
一月に一回講義に来ていただき20数年学んだ。
「般若心経」「黄檗伝心法要」「臨済録」など学んだが、
若すぎて文字の意味ばかり追いかけていた。
頭の中で言葉だけで知ってる理想論者になって知識だけがある。
言葉の意味を知るので精一杯だった。
小田切先生は「経外別伝 不立文字」と言い出す。
「文字ばかり追っかけても「物知り」になるだけだ。」
「分別知(二元論)を離れろ!」
さっぱり解りません。
道元は「只管打座」と言って、ひたすら坐れ、
善いことを文字として口にするのは理想を目指すとことだが、
実際に実行するか実行しないかはあやふやだ。
そんな言葉や文字を信じ、経典をいくら読んでも意味を成さない。
ただひたすら座して「座禅」する行動だ。
これが正法だというのだ。
小田切先生からは臨済禅の話をよく聞いていたので、
形式を重んじる黙照禅だと思い込んでいた。
とんでもないことに気づいた。
道元は「心身一如であるが、身体的な威儀・作法を身につければ、
心も自ずとそれに従って改まりよくなるものである。」と断言する。
まずは、「身をもって」と言い切る。
しかし、「正法眼蔵」では言葉でも表現できると書き記しているのである。
「不立文字」とは矛盾するというのが常識人の私だ。
道元にとって全く矛盾せず、解き明かしているのである。
(この解説は実際座禅するか、参考本で)
道元は晩年「出家主義」に傾いていくのは、
世間の分別から出れば解るといいたかったのでしょう。
「不立文字」の学びとして自分の身を「「正身端座」美しく
優先順位一番にすることが重要度だ。
皆さんは不立文字いかが考えられますか?