200年さかのぼる江戸時代には西洋的な知識がほとんどなかった。
「江戸わずらい」と言って、
現代ではビタミンB1不足の「脚気」(かっけ)のことである。
もちろん、慌てふためいて江戸中の話題になったのは間違いない。
西洋的な肉体は肉体として分解し、物質の反応、関係性を特定し原因究明する。
ビタミンB1を取ればいい、米ぬかだ。
江戸庶民は対処法が見つかるまでは妄想し、
明日死ぬのではないかと大騒ぎしたことだろう。
この時代にあったのは占い師による不幸の追放、あるいは苦しいときの神頼みと言うご利益信仰だ。
「江戸わずらい」を治すには、お百度参りで神社の神さんにお願いする。
お寺に行って祈祷してもらい、お札を貰って安心する。
さて、信仰には信じて仰ぐことだが、意味は二つある。
1.人間にとって不幸なことや都合の悪いことを取り去ってもらうこと。
2.自然の中に生かされてることに感謝し、
人間の理性を超えた世界、眼に見えない世界に恐れと敬いを持つこと。
科学万能の世界が現代で、論理的な因果関係があってることが正しく、
それ以外は観念論だと排除される理性オンリーの時代が現代だ。
ヨーロッパが神から開放され理性を使って科学的な道を歩き出して約500年ぐらいだ。
しかし人類は約50万年前で、地球誕生から言えば50億年になると推理される長い間、、
天変地異が恐怖で畏敬の念を持つ信仰をし、
生贄(いけにえ)まで差し出す儀式が世界のあちこちで成されていたのも歴史的事実だ。
不幸や苦しみを取り去る人間勝手な利己的信仰もあり、
利他的に謙虚に自然と寄り添い、
自然に畏敬を感じ、自然とコンタクトすることのできる巫女のような人物もいた。
(今で言う超能力者)
現代はあまりにも理性こそ正しいと人間が傲慢になってる時代と自問自答する。
人間の理性が大自然を100%と考え、何%理性によって解き明かしたか問題だ。
ご利益信仰や迷信的な信仰心は自己中心的都合だが、
自然に対しての謙虚に向き合う利他的信仰心は人間の傲慢を抑える意味でも必要だ。
科学の発展は多くの技術を生み、医学を始めいろんな分野に応用され豊かになったことも事実だ。
しかし、大自然の恵みに生かされていることに感謝する信仰心と言う謙虚さがいることは間違いないようだ。
皆さんは信仰心如何考えられますか?