末来観と現代人

投稿日:2017年1月7日 更新日:

未来に向かって「どういう生き方があるか」を教えてくれるのが万葉集だ。
巻二十の四五一六の最後の句は大伴家持の句だ。

「新(あらた)しき年の始め初春の今日降る雪の いや重け吉事」

天平宝字三年(759)の春正月一日に因幡の国赴任した大伴家持が詠った。
正月の元旦に降る雪は良い事が重なって起こる吉事だと前向きな兆しと捕らえる末来観だ。

ロマンチックで何事も良い方に考え未来は開けると信じているのが万葉人だ。

「勝者は歴史を書き、敗者は文学を書く」という言葉があるが、
もう一つの末来観は鴨長明や吉田兼好かもしれない。
世の中に常なるものは何もない、縁によって変化するという無常観である。
表舞台から隠遁した者の「あきらめ」的心境「諦観」的な末来観も歴史にはあった。

もう一つの末来観は一休や道元、白隠が示す末来観だ。
「諦観」という悟りきって現実を傍観する立場の末来観でなく、
現実を生き抜く末来観が禅宗にはある。
「而今」の末来観である。「今・ここ・自己」に徹する事で末来が開ける。
頭で屁理屈考えず、即行動すれば活き活き生きれると彼らは迫ってくる迫力がある。
道元は「身心脱落」
一休は「有露路より無露路へ帰る一休み
雨降らば降れ 風吹かば吹け」
白隠は「直指人心 見性成仏」

生死の真っ只中を生きろというのが禅だ。
頭で相対的に○×を分別するな!知りたければ、
道元のように「冷暖自知」と言い放ち、
自分で現実に飛び込んだら解る。
これが「而今」に徹する末来観だ。

ところが養老孟司さんは現代人は科学を誤って理解してるというのである。
論理で明日の事が予測できるという幻想を持っていて、
どんなに精密な理論でも、予測は予測でしかない事に気付いていないというのである。

人はついつい忘れる。
熊本の震災は予測すらできていなかった。
現代人の一員として眼に見えないものへの畏敬と感謝の念を忘れ、
論理のつじつまの合うことばかりが正しいと妄信していては、
人類の末来を極楽へひっぱっるのでなく、
地獄へ突き進んでるように感じるのは私だけだろうか?

「祝福」「諦観」「而今」という末来観を皆さんは如何考えますか?

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