同情は利己心、共感は利他心

投稿日:2020年2月25日 更新日:

国家の安寧を思うなら若者人口が多く、
同時に自主、自律、自覚のある心の育成が重要だ。
仕事をする職場も同じことだ。
若い人が自分の成長を願って仕事に取り組むことが重要だ。
「かわいそう」「気の毒につらいやろ」という言葉は、
相手のことを理解しているやさしい人良い人のように映る。

この態度は同情の態度だ。
決して悪くはないが、良くもないのである。
同情というのは支配依存関係の中で生まれる感情だ。
強いものが弱いものに気遣う言葉だ。
言い換えると、自分が部下からどう思われてるか自分のための言葉だ。
周りからいい人だ。
そういわれて感情移入しすぎると我を忘れてのめりこんでしまうことになり、
同情からお金を貸して踏み倒されるということにもなる。

過日、いとこがある事業で免許が取り上げられるから、脅されてるからお金を貸してくれと言ってきた。
私は、お金も解決の方法だが、逆に免許を渡して違う仕事をするのも方法だ。
問題解決には弁護士を紹介しようと切り出した。
私はお金を貸す、貸さないより課題から解放され解決するにはどうするかと思ったからだ。

いとこは仕事の上下関係もなく、金銭的な貸し借りもなかったからできたことだと思う。
まさに、事実を共有し信頼があるから自分をコントロールできたのだ。
これが共感だ。
相手の立場に立って利他心を使うことだ。
国家も同じだ。
主権在民だが、主権者に迎合することではない。
アメリカのケネディー大統領の言葉を思い出す。
「アメリカがあなた方に何をするかでなく、あなた方がアメリカに何をしてくれるかといたい」
勇気ある言葉だ。
職場や趣味や近所付き合いのコミュニティも同じだ。
互いが支配的な依存関係を脱して、対等な人間関係であることが重要だ。
確かに社会では社長や、部長といった肩書があるが、
これはあくまでも仕事上の責任を規定したことで、老若男女は人間として対等だ。
仕事上の職階が上になると人間的にも偉くなったように錯覚する人もいる。
そんな人は依存的な関係を自ら作る事になるのである。

お釈迦さんは当時のカーストという階級社会という時代背景の中で、
理想的な普遍的平等を語ったに過ぎない。
これが現実の世界にあるかと言えば、ない。

しかし、未来いつかそんな世界があると信じるからこそ生きるエネルギーも沸いてくる。
志、理想は生きるための燃料だろう。
人間とはそれほど動物的な本能の利己心に支配されているのだ。

共感をベースにした自由で平等な社会こそが人類の目指している方向に違いない。
自分と他人の約束を守るのは商道徳で当たり前ですが、
さらに自分と自分の約束が守れる自覚ある自分つくりが必要だ。

皆さんは共感という信頼ベースの仲間たくさんいますか?

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