「気」とはエネルギーであることには間違いないが、古代中国では三種類想定されていた。
其の三種類は進化する「精気、気、神」となる。
「精気」という一段階目は荒々しくて分子や原子のようなものです。第二段階目になると「気」となって整っていく、さらに整うと素粒子になり、「神」となる。(小林秀雄の本居宣長には「神」=カーミィルと言ってごく微細なるものと書かれている。)
現代科学では「超ひも」と言って物質最小要素となり、エネルギーそのものだ。
「精」とか「気」は人間にも意識でき現象に対する呼び名だが、形はないが「精が出る」とか「気合が入っている」として表現できる。
しかし、「神」になると無意識の領域になって意識できないぐらい極微細になる。
南宋時代に朱熹が「理気二元論」というのを提唱する。この「理」とは昔は人間が考えだす概念のすべてのことを言う。(現代は理科系という意味で使う)
言い換えると「哲学」も「理」である。現代は狭い意味で「理」を使っている。さて元気の「元」は人間の首を表し、下二本は足を表すという説が有力(他にもある)「統合する力」の根源というもとを意味する。
元気とは物事の動くエネルギーの元で生きとし生けるものには寿命は違うがある。中国ではそれをさらに「陰」と「陽」に分けて説明し、統合されるのを「太極」という。
動くものを「陽」で男性、花とか枝、とどまるもの「陰」と言って女性、根っこ、愛と言い、このバランスによって自然がなりたっているというのである。
人間的に考えると、「理知」、「知性」は分解する方向で陽、言語とか計算をつかさどる。(仏教でいう分別知)一方「愛」は分ける働きでなく、根っこのように「包み込む」働きをする。(仏教的には慈悲という)今の脳科学で言うと右脳でしょう。「陽」は左脳ということになる。
この気を丹田に収め、意自在に動かすことで、身体も自在に動き役に立つ働きをするようにできている。
しかし、自意識が強い若い時には緊張のあまり自在に心技体を使いこなせない、この心技体をうまく使いこなすには持続した努力がいる。
さて、「意気」を統一するのは「息」を整えることが一番大事で近道である。呼吸法だ。
古来インドでもこの調息法を研究されていたのである。恩師小田切は「意気色空を貫く」と言って自らを整えることと諭したものだ。
何を為すにもまず自分を整えることが一番であると再認識する次第だ。
皆さんは「気」に付いていかが思われますか?