「魂」について

投稿日:2021年3月29日 更新日:

小学校の4年生の時に、浜寺公園海水浴場(今はない)に行った。
その頃、親父の友達が地下鉄緑橋駅に近い公設市場で八百屋さんをしていたので住み込みで手伝っていた。仕事は古くなった玉ねぎの皮をむいて「むき玉ねぎ」という商品を作ることや、ほうれん草の葉っぱが萎れたのをまびいて、新しく寄せ集め束にして店に出せるようにすることだった。
そんな中、たまたま市場の慰安旅行があり浜寺公園海水浴場に行くことになったのである。
そこで、一緒に行ったお兄ちゃんがボートに乗せてやると言ったので乗り込んだら、途中でお兄ちゃんが私に「岸まで帰れるね、泳ぎなさい」と言ったので、背が立つと思って飛び込んだものの、思ったより深くて背が立たず慌ててしまい溺れてしまった。
呼吸が停止して死にかけたが人工呼吸を一生懸命してくれたおかげで一命をとりとめた経験をした。

魂(霊)は姿がなく匂いも音もしないが、私はあると確信している。
海で死にかけた時、みんなが私の身体の周りに集まり一生懸命胸を押さえているのを3メートル斜め上から見ている自分がいた。
時間的に何秒その状態だったか分からないが、ある瞬間逆に肉体からみんなの顔が見える状態になって助かったのだ。

今日の朝日新聞にあった『「魂」はそこにある』と題して京都大学名誉教授の佐伯啓思さんが書かれた記事が目に入った。
墓石を扱うビジネスをする私にとって非常に大事なことなのでその記事を読んだのだが、感服と同時に共感した次第なので紹介する。

佐伯先生は戦後日本がなくしてしまったのは「祖先を敬う心」だとおっしゃり、死者と生者が「魂」を媒介して交感という観念を排除してきたと結論付けられた。
大変詳しく書かれているので記事の中身を書くことにする。

ルース・ベネディクトの著書「菊と刀」の中で、「罪の文化」と「恥の文化」という西洋と日本の文化の対比が書かれている。
絶対神を持つ西洋文化は神の前に在って自らの罪を己に問う倫理的な個人を産み出し、一方日本人は世間に対する恥という集団的な「世間体」が日本人の道徳観を特徴づけているという。
また、柳田國男の著書「先祖の話」は、終戦直前に「家」の観念が弱体化し祖先の観念や祖霊の想念が消え去る前に記憶に残したいと書いた。
それは死者と生者の対話の道筋を失い、死者の前に会って自らを省みて精神を浄化する作用を失うと考えたからだ。

西洋のように絶対者の神の元へ魂が行くのでなく、日本は生者と現世に接した場所で死者が共存しているという観念であり、鈴木大拙流に言えば「日本的霊性」の在り方だ。「魂」が浄化されれば「霊」は清浄なものとなるとされている。

現在の「墓じまい」の流れは家社会が崩壊し個人主義社会となり村社会という共同体の掟もなく、「世間体に対する恥」が希薄となり、目の前の利益と快楽に耽溺するのが実情だ。
そこには死者との対話もなく、自らを省みることも自問自答もなく、物的な豊かさを求め酔っているだけで、死者への畏れや惜別と無念さを見失ったとき自己を省みるという内面の道徳観の契機も喪失しているとおっしゃられる。

人口減少の反面、世帯数は増えている。独身女性・独身男性に、老人夫婦や老人の独身者だ。
決して供養の心がなくなったのではなく、「家」意識が事実上機能しなくなったのだ。
個人主義意識の台頭だ。
あらゆるものがその社会の変化に対応が遅れているに違いない。
インターネットはそのことにいち早く対応し、リアルな社会を大きく変化させつつある。

皆さんは「魂」について考えられていますか?

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