アダム・スミスは、人間が富や地位に対する野心を持つことが社会の繁栄という有益な結果をもたらすと考えた訳ではい。『道徳感情論』で述べているのは、「人間生活における努力の半分の目標であり、そして、貪欲と野心がこの世に導入したすべての争乱と動揺、すべての強奪と不正の原因なのである」ということである。
(『道徳感情論』一部三編二章、『アダム・スミス』堂目卓生著より
富や地位に対する野心と競争心を持っていても、世間から尊敬と感嘆を得るためには二つの道がある。
まず一つ目に、英知と徳(virtue)のある人間であれば世間から尊敬されるし、反対に愚かで悪徳に満ちた人間ならば世間から軽蔑される。
そして二つ目は、裕福な人間であるか社会的地位の高い人間であれば世間から尊敬されるが、貧しい人間や社会的地位の低い人間は軽蔑され少なくとも無視される。
しかしながら、世間にとって英知や徳は見えにくいものであり、富と地位は見えやすいものなので、世間の尊敬は英知と徳ある人よりも裕福な人や社会的地位の高い人に向けられる。
アダム・スミスは、個々人の胸中にいる公平な観察者はその人の英知と徳の程度を知っていると言う。そしてさらに、胸中の公平な観察者は、その人に「心の平静」をもたらそうとする存在であるので、その人の富や地位よりも徳と英知に対して、より大きな尊敬と感嘆を与えるとも言っている。
さらに、「財への道」は「弱い人」が選ぶ道、「徳への道」は「賢人」が選ぶ道だと言うが、普通の人間は「弱い人」と「賢人」の両方の側面を持っているのだから、同時に進もうとする。
しかし、「人類のうちの大半は、富と地位の感嘆者であり崇拝者」だと言っている。
そしてさらに、スミスはフェアプレイの精神が大事だと諭すが、人間は変えられない現実として「賢明さ」と「弱さ」の両方を持つ。
スミスは、社会の秩序と繁栄を妨げる様々な問題を人間の中の「弱さ」の存在自体のせいにしてはならないと言い、人間の変えられない現実として「賢明さ」と「弱さ」の関係として捉え、「弱さ」を放任するのでもなく、完全に封じ込めてもならないと言う。
この発想は仏教的な「迷悟一如」であると腑に落ちる。
「弱さ」がなければ「賢明さ」も生まれない。
また、言い換えると「自利利他」ともいえる。
スミスの言う「公平な観察者」とは「良心」だ。
ところが「弱さ」に負けて「財への道」を当然と思い「賢明さ」で抑えきれないときがある。
「見えざる手」が自然と調和してくれるのだろうか?
皆さんはスミスの公平な観察者いかが思いますか?