「幸福になる人」とは?
仏教的に言うと「自利利他」の人と言うのですが、まず「幸福」とは人によって違います。
家や車、おしゃれな服を持つことが幸せという人から、世界各国旅行に行くこと、クラシック音楽を聴くこと、能や演劇を見ること…具体的な生活するためのモノから、精神を満たすような芸術や美学など…自己の肉体的な健康より精神的な健康へと高まる。
幸福とは人間が創り出した家や服、音楽や絵画や詩などにあるのでしょうか?
そうではなく、自然が生み出した山河や植物や動物を鑑賞することを好む人もいる。
全く逆に考えると幸福は「自分が幸福と感じること」とも言える。
極端だが、普段水を飲むことに幸福を感じなくても、砂漠の中で喉がカラカラになっている時に一杯の水を飲んだ時は「幸福」と感じるだろう。
また、精神的に落ち込んでいる時には「笑い」や「音楽」が癒してくれる、そんな「幸福」もある。
「幸福」とは自分が感じ、内から創り出す心持ちのこととも言えるのである。
この感覚は仏教が「諸行無常」と諭すように、常に変化していくのが人間の与えられた性質だ。
常に新陳代謝する心の模様が外に内に響いて動き変化するのを楽しんでいる。
一般的には外から具体的に見えるモノで納得する意味や価値を付ける傾向が強い。
だが、私は内なる感性が求めていることやモノという「思い」が幸福を創造し、行動に転化しているように感じる。
仏教では地獄・極楽の話があるが、これは幸福になるか不幸になるかという話だ。
三尺三寸の箸の下にうどんがあって、三尺三寸の前に人がいる。地獄は我先にとうどんを箸で挟み食べようとするが、箸が長過ぎて口に入らないから、横に並び皆痩せ細っている。逆に極楽は、三尺三寸の箸でうどんを挟み、目の前の人に食べさせてあげる。前だから腕の分が長く伸びるので相手は食べられる。すると相手もこちらに食べさせてくれて、皆丸々と太り極楽になるという話だ。
この相手に先に与えることを「利他行」と言うが、それは自分からやろうと思ったことなので「自利行」は「利他行」と同時なんだということで「自利利他」言う。
一方地獄は「我利我利」と言って、自分が先に食べようといくら一生懸命にやっても食べられない欲の塊だ。結果はどうなるかというと、自分も向かいにいる人も食べられないで「自損損他」と言ってどちらも損をするのである。
こんな言葉もある。「奪い合えば足らぬ、分け合えば余る」
与え合う「利他行」で「自得得他」の実現こそが幸福な人だ。
こんな単純なことが解らないで、ロシアはウクライナに戦争を仕掛け奪いに行っているのである。
今の環境をより良くする前に、感謝してより良い方向へ自ら創意工夫してみんなが喜ぶ善行を積み重ね、幸福な人と幸福な社会を実現することを心から祈りたい。
そして、反省と感謝と謙虚を心に留めたい。
みなさんは幸福になる行動されていますか?