故稲盛和夫さんから盛和塾で「心を高め経営を伸ばそう」と教えられたが、心と具体的な経営という経済活動がどこで結びつくのかはっきり分からなかった。
それを理解するには、日頃から無意識に何事にも〇だ✖だ、損だ得だと相対化して、どちらが良いかと結論付ける二元論思考をしていることに原因があると気づいた。
同質のものを集め、異質のものを除くことが正しいと思い込んで、矛盾を排除し、判断・決断して行動することを疑っていないところにある。
私たち人間は自分の五感を通して情報を受け取り、自分に都合の良いように取り入れるのが自然な行為だ。
それを「自我」という。言い換えると、自己中心的な主観的な主体ができる。それが自分だと思い、個性だとも思っているが、生まれてから体験したことと、知り得た知識でできた狭い範囲の「我」ということになる。
子供の頃は無邪気に心の赴くままに「我」を通すことができ、大人はそれを見守ってくれるが、社会人になっても子供のままでいたら「我」と「我」がぶつかり合って集団としての協調や協力関係ができない。「我の我」になってしまうのだ。
次は「我の無我」で、我を隠して自己を捨てるふり、合わすふりをする。気の弱い人は「我」を殺し我慢する「無我の無我」を演じ、主体性のない傍観者になる。
さて、このことは臨済義玄禅師が「四料簡(しりょうけん)」の「鐘と撞木」で我々に諭されている。
「鐘がなるか撞木がなるか 鐘は鳴らない撞木がなる」---我の我
「鐘が鳴るか撞木がなるか 撞木ならない鐘が鳴る」----我の無我
「鐘が鳴るか撞木がなるか 鐘と撞木の間で鳴」------無我の無我
「鐘が鳴るか撞木がなるか 鐘と撞木で音がする」-----無我の我
私たちの存在は矛盾体でなく、統一体だという一元論に着眼をする。我という主体が無我という方向で行動する「無我の我」でしっかり地に足がついた人格ができるのである。だから、心を高めて人間力を養い、経営という生産性を上げることが実現するのである。無我になって利他行する主体的な我を持たないと行動もできないし、音もならないのである。
みなさんは「無我の我」育てていますか?