「道元」に学ぶ

投稿日:2024年2月11日 更新日:

「身心脱落・脱落身心」とは自由を体現することを意味する道元流の言葉だ。
快楽主義者や自然主義者の中には「『克己』は不自然で不自由だ」と考え、情欲の満足、快楽の追求を重んじる浅薄に思う人もいる。
しかし、情欲の満足も快楽の追求が自然であることと同一の理由によって「克己」もまた人間の自然である。

人間の情欲はそれぞれ充足する理由があるが、漫然と放任すると必然的に欲求間に矛盾衝突するようにならざるを得ない。
だから、人間は多くの欲求が相互に関連し合って一全体をなして調和的に生活している。
多くの欲求が総集約されて全体的に統一されてゆくことがなければ生活は破綻する。
もろもろの欲求が統一されるのがすなわち「克己」である。
情欲が自然であるが如く、克己もまた極めて自然である。
全体統一作用を克己と考えるのは、己はまだ低劣だからで、己が高まれば、克己が克己でなく自在三昧となる。
(自在=意のままに従わせる力、三昧=心を静めて一つの対象に集中して心を乱さぬ状態)

孔子は論語の中で「心の欲するところに従えど矩(のり)を踰(こ)えず。」と表現しているのが自在三昧だ。
(安岡正篤師の解説)
自然主義者・快楽主義者には情欲の調和という全体を要するのと同じように、克己は形式をとことん無意識になるところまで自然にできるよう己を高めることを要する。

身心脱落・脱落身心の意味は奥が深いと今更ながらに感じ入る次第だ。
相対性の中で己を高める修行中だ。

みなさんは道元の身心脱落・脱落身心如何に考えられますか?

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