自分が自分の主人になる。

投稿日:2014年4月26日 更新日:

スリランカ仏教界の長老のアムボムッレ・スマナサーラさんは上座仏教だ。
日本の仏教は大乗仏教で在家でありながら「苦から開放」される方法を伝授するが、
上座仏教で解かりやすく噛み砕かれてるのでここに紹介する。

実に納得する表現に「人間は依存症の保菌者」であるというのだ。
私たちはみな「何か」の依存症であると言う、
今、依存症でなくても次の瞬間に依存症になる場合もあると断言する。

そこでさらに突っ込んで、酒や賭け事に依存するのは悪いことであるし酒は病気にもなる。
だからといって、「いいこと」に依存するのは良いことと言えるか、
たとえば、ボランティア活動、平和活動、地域活動だが、
それに依存すれば自分を見失ってしまうからいけないと言う。
悪いことに依存するのはいけないが、
良いこともいけないと考えるところが自分が自分の主人なんだ。

仏教で言うところの「中道」だ。
決して1メートルの真ん中が50センチという真ん中を言うのでなく、
自分が自分でコントロールして行き過ぎず、
行かな過ぎないポイントで加減して行動することだ。

次に「依存」と同じ言葉で「執着」も自分を見失うことでだめというのだ。
「奴隷」と「使用人」と言う表現で解いている。

自分が自分であるには「体の奴隷」と「心の奴隷」になるなと解く。
自分の思うように心も体も動いてくれないのが現実だ。
体は五感を味わいたいと命令する。
心も「思うようになりたい」と愚痴や怒りやもっとほしいと貪欲を命令してくる。
「体と心」の奴隷になって自分でコントロールできていない。
自分が主人で「体と心」使ってるのではない。
主客が顚倒してる。
(ここで言う心は本能的利己心だ。)

又、自分の「子供」「財産」「名誉」「地位」などの自分が主人と思ってることが、
実は、それによって自分が支配されていて自由でなくなってるのであると解く。
「使用人」であるはずの「子供」「財産」「名誉」「地位」に、
こき使われてて自分がなくなってるというのだ。

もちろんそんなことないという方もおられるでしょう。

皆さんはこの説法どう感じられますか?

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