学ぶとは

投稿日:2014年3月31日 更新日:

歴史を学ぶとは過去と現代の対話である。
人間の学び方は昔も今も変わらないという話だ。

論語の雍也第六に冉求が孔子を持ち上げて謙虚に言ったつもりが、
核心を突いて論破される場面がある。

よく考えないで冉求の話しを聞いていたら、
下出にでて学ぼうとするいい奴と勘違いする。

「冉求(ぜんきゅう)曰く、子の道を喜ばざるに非ず(あらず)、力足ざればなり。」
「子曰く、力足らざる者は中道にして廃す(はいす)。今女(なんじ)は畫(かぎ)れり。」

意味=ぜんきゅうは先生の説かれる道を喜ばないわけではありませんが、
     ただ何分にも私の力が足りませんので行うことができません。
   
孔子は言われた、力が足りないかどうかは力の限り努力してみなければわからない。
    力の足りないものは中途で倒れるまでのことだが、
   
    今のお前は、はじめから見切りをつけてやろうとしない、
    それではどうにも仕方がない。

私はよく講演に行ったり、人の話しを聞く機会がある。
先日、ある講師が「私はこの話しを何十回もしてきた。これからもこの話で講師の仕事ができる。何故ならこの話しを聞いて二、三日覚えてる人は20%ぐらいいる。一週間たてば数%になり、実行する人は0.1%しかいないからだ。」

学ぶと言うのは『真似る』が語源だそうだ。
ただ真似すれば良いのに、聞いただけで達成感を持ってしまうのが凡人の私たちだ。

それは期末テストの前にたてる理想的計画と同じだ。
一週間、学校から帰って毎日7時間勉強する計画だ。
過去に一度も実行したことのない理想の計画だから作った瞬間に達成感を味わってしまう。
話の中味、計画の理想具合が良ければ良いほど自分が実行した気になるそうだ。

冉求も孔子にお愛想でいい話だといったが、学ぶ姿勢ではない。
孔子はその美辞麗句を見抜き「最初から実行しないで言い訳するな!」と弟子を諌めてるのだ。

みなさんは真似てますか学ぶために?

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