「人命と人生」の違い、本来の自己に逢いたい。

投稿日:2021年3月10日 更新日:

若い頃は自分の命に不満ばかり言っていた。
「なんでこんな親の元に生まれてきたのか、もっと金持ちの処がいい、最初から頭のいい家系の遺伝子だったら良かった」といくら言っても実現しないことに目を向け、自己正当化する自分がいた。
そして本能的な楽しいことに酔いしれて遊んでばかりいた。

よくよく考えてみると、赤ちゃんには人命はあるが人生はないし、何十年も病気で寝ている人にも人命はある。
交通事故で意識が朦朧としている人も人命は拾ったが人生は失った。
どんな人も平等に「誰もこの親の処に産んでくれと思って生まれていない」のが人命だ。
ここが出発点だから素直に「ありがたい」というほかはない。

だが、人生は与えられたものではなく、自分で創っていくものである。
自分の持っている得意を生かし、自分を建設し、自分の責任で行動するのである。
ところが、これには2つの心構えがいる。
1.一つは本能的な欲望との闘いである、五欲(食欲・睡眠欲・性欲・財欲・名誉欲)に打ち勝たねばならない。
2.周りの環境や出会う人によって影響されるが、自分の意志と努力によってコツコツ積み上げていく誠実さがいる。
この意志は「こうなれば良い」というような漠然とした希望では途中で折れてしまいます。
出来ても出来なくても良いが、やり遂げたいという強い願望を持つことが求められる。

禅の修行者は最初に「初発心時、便成正覚(しょほっしんじ、べんじょうしょうがく)」と「発菩提心(ほつぼだいしん)」と言って、悟りの彼岸に渡りたいという強い願望を持つ。
これは強いと「すなわち正覚を成ず」という。とにかく主体的心構えと意欲が無いと共同生活の要領ばかりが良くなり、自分の修行がさっぱり進まなくなる。自分から菩提心に飛び込んでいく気魄がいる。これを「入我我入」と言って、仏(菩提心)が飛び込んできたのか自分が飛び込んでいったのか分からない状態のことだ。
カントは自分に向けた行動を「実践理性」といった。
白隠禅師の「壁生草(いつまでぐさ)」の中に、「勇猛(ゆみょう)の衆生の為には、成仏一念に在り。懈怠(けたい)の衆生の為には、涅槃(ねはん)、三祇(さんぎ)に渉る」と書かれている。 意味は「励んで修行する人には、成仏(悟った人になる)は一瞬のことであり、嫌々修行する人には、悟りの世界は永遠にやってこない」と戒めている。
決して坊さんになるということではなく、真実の自己を完成させるには菩提心を起こすことは、「東京に行くと決めて、新幹線に乗る」ようなもので東京にはつける。

自分の得意な才を生かして、誰にも負けない努力と意志力でまだ見ぬ自己と出会いたいと強く念願する次第だ。

皆さんはどんな人生を強く思い願って創ってこられましたか?

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